当事者対談企画「発達障害、いつ分かった?」

今になって思えば「これは発達障害の特性だったんだな」と思うこと

子どものころを振り返ってみて「今になって思えば『これは発達障害の特性だったんだな』」というエピソードはありますか?

本当に必要だったのは「Why」ではなく「Action」のサポート

小学校時代は「次の日の学校の準備」がとても苦手でした。前日の夜に準備することがどうしてもできず、当日の朝になって慌ててやり、母親から注意される…ということを繰り返していました。
でも注意されても直せないんですよね。「なんでできないの?」と言われても、とにかくできないんです。

分かります…そして今、親の立場になってみて、自分の子どもに対して「なんでできないの?」という言葉をかけてしまいがちだなと気がつきました。

発達障害の方の脳の特性として、実行機能の障害があると言われていますよね。
「なんでできないの?」という理由(Why)を問われても、どうやって実行(Action)したらいいのかが分からない。理由をたずねるだけでなく、もっと具体的に「まずは時間割から確認してみよう。次に教科書とノートを入れて、その次に鉛筆を削って…」という実行のためのアドバイスをしてくれていたら、もう少し上手にできたのかもしれません。

なるほど。私は小学生時代、夏休みの宿題を計画どおりに終えられたことが一度もなくて。それはADHDの「計画を立て、段取りよくものごとを進めることが苦手」という特性だなと思っていたんですが、問題は計画を立てる部分だけでなく、実行する部分にもありそうですね。
ただ、親の立場として「本当は実行までサポートしてあげたいけど、なかなかできない」っていう事情もありそうです。
例えば平日の朝「この時間の電車に乗らなきゃ大事な会議に間に合わない!」っていうときに、子どもが「学校の準備ができない」って言いだしたら…もし自分がその状況に置かれたら、冷静にサポートするのは難しいなと。

そうですよね。親だって仕事に家事に忙しい。そのなかでどこまで子どもと向き合えるのか、とても難しいと思います。
なので「自分の親に、当時こういうサポートをして欲しかった」という思いはありますが、自分が大人になって親の立場から考えると、サポートが十分にできないのも仕方ないことだよなって、理解できます。

自己肯定感を下げないために 〜それは本当に、性格の問題?〜

中学・高校のときは「今日の授業で使うものを用意して持って行く」ことが苦手で、しょっちゅう忘れ物をしていたので、“置き勉”(教科書やノートなどの勉強道具を持ち帰らず、学校に置きっぱなしにすること)が多かったです。

あるあるですね…私もよく教科書や資料集を忘れて、貸してくれる友だちを探すのに苦労していました。
「忘れる」と言えば、お弁当や薬の容器のフタを閉め忘れ、カバンの中でぶちまけることがよくありました。香りがキツいものをぶちまけたときは教室中に臭ってしまって…もう最悪で(苦笑)

分かる!それ、やっちゃいますよね。私もここでは言えないような“だらしないエピソード”が他にもありますよ(笑)

“だらしないエピソード”を繰り返していると、「いったい自分は何をやってるんだろう、なんでうまくできないんだろう」という考えになって、自己肯定感が下がっちゃいますよね。

そうなんです。私も当時は「自分がだらしない性格だから、こういうことしちゃうんだ」って考えていました。でも今になって思えば、忘れ物などの不注意は、ADHDの特性によって起こっていたんじゃないかと思います。
中学・高校生になってくると、少しずつ自分で困りごとへの対策をするようになるんですが、「自分の性格が悪いんだ」と考えたままでは、対策できたとしても自己肯定感は上がらないですからね。
もし当時、困りごとの原因が自分の性格ではなく発達障害の特性によるものだと知っていたら、精神的にもう少し楽だったのかもしれません。

「性格や気力の問題」ではなく「能力の問題」

「もしかして私、発達障害かも…?」と気がついたのは大学時代だった、とお話ししましたが、それを強く自覚したエピソードがあって。

おぉ、それはどんなエピソードですか?

藤森:

部活で、卒業する先輩方にお礼状を書くことになって、部員みんなで手分けして書いていたんです。
自分の割り当てを書き終わった人から帰っていいことになってたんですが、私は最後まで取り残されてしまったんですよね。
お世話になった先輩へ感謝の気持ちを伝えればいいだけなのに、短い文章でいいのに、書くことにどうしても集中できない。ほかの友だちはすぐに書き終わって続々と帰っていくのに、私だけがぜんぜん筆が進まない…。
そのときに「もしかして、私はまわりの人たちと何かが根本的に違うんじゃないか」って気がついたんです。

学生生活では、他にも自分とまわりを比べる機会がたくさんあると思いますが、そのエピソードのときは何が違ったんでしょう?

それ以前はまわりと比べてできないことがあっても、自分の性格や気力の問題だと考えていました。例えば
・忘れ物が多い → 私の性格ががだらしないからだ
・テストの成績が悪い → 私の気力が足りず、十分勉強できなかったからだ
…という感じで。だから「自分はまわりと何かが違う」とまでは、気づかなかったんです。
でも「誰がやっても同じような結果が出せそうな作業なのに、明らかに自分一人だけができない」っていう場面に遭遇して、これは自分の性格や気力の問題じゃなく、そもそも“能力”として自分が持ち合わせていないのではって気づいたんです。

なるほど。例えるなら「自分が野球チームに所属していて、野球が下手なのは自分の性格のせいだ、気力が足りないせいだと思ってきた。でも、野球に必要な能力はそもそも持っておらず、実はサッカーに必要な能力を持っていたんだと、あるとき気づいた」みたいな感じでしょうか?

そう。野球チームは野球をやることが当たり前の環境ですから「ボールを蹴ってみる機会」なんてないですよね。だから自分は野球が苦手で、サッカーの方が得意なんだと気づくことができない。でも環境を変えてサッカーチームに行けば、大活躍できる可能性がある。そういうことが実生活でもあるんじゃないかと。

たしかに、私もオフィスに通勤していたときはまわりの話し声が気になり、ぜんぜん集中できなかったんですが、リモートワークするようになったら「あれ、意外と私、環境が変われば集中できるじゃん」って気がつきました。
「衝動的にいろいろなことに手を出してしまう」という特性も、会社員のときはまったく評価されませんでしたが、フリーランスとして自分で仕事を創意工夫しなければならない環境では、むしろ役に立っている気がします。

同じ環境の中で、同じことを繰り返していると気づかないですよね。
もちろん、何でもかんでもすぐに環境のせいにするのではなく、「まわりに合わせて、苦手なことでもがんばる」ということが必要なときもあります。でもそれだけにとらわれず、環境そのものを変えることで「自分が本当に得意なこと」が見えてくるのかもしれません。

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